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浄土真宗 一向山専念寺伊勢堀院 BLOG

鹿児島県志布志市の寺院

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浄土真宗本願寺派本山 

年末、京都での最終日
西本願寺にお参りに行ってまいりました
亡き祖父も、若かりし頃、何度も訪れた場所です
九州から京都
今の時代とは交通事情がかなり違って大変だったんでしょうね


本願寺

阿弥陀堂、御影堂の順に参拝し
ブックセンターで頼まれ物の、門信徒手帳を手に入れ
駅に向かいました
新幹線の予約をお願いしたのですが
もう、予約はだいぶ埋まっているみたいで
かなり時間がかかってしまいました

祖父の時代を考えると
いまはその日のうちに、鹿児島についてしまいます

阿弥陀堂門

今日で、なんとか年賀状を終わらせることができ
今年も無事に、年を越せそうです 感謝!
年明けにまた、お参りします!
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読書 

今日は、いろんなものが届きました

最初に届いたのが、早島鏡正先生の『歎異抄を読む』です
早島先生の本は『蓮如』-その教えと生き方-を以前読んだきりですが
冬の間、しっかりと読んでみたい本です

早島先生

次に届いたのが
ウィリアム・イースタリー『エコノミスト南の貧困と闘う』です
先進国の開発援助と貧困の問題
なかなかその実態をマスコミは報道しません
これも、時間のある時に読んでおきたい本の一つです

最後に、届いたのが、ワインです
前の仕事で顧問をしていた弁護士さんからのいただきもの
国内産の秩父ワインと甲州ワインでした
(日課の散歩をそそくさとおわらせて)
早速、一本あけました
赤が好きというのを覚えていただいてたんですね
ありがたいですねぇ・・・これが一番!合掌

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後深草天皇のお墓 

今日は寒い一日でした
しかし、日課と決めた散歩を実行すべし
と、深草の山の方を目指して、歩き始めました

すると、このような、景色に出合いました
「これは、もしかして、天皇陵?」と脇にあった案内を見てみると
やはりそうでした

なんだか、自分が思っていたコースを歩いてなくて
でもまあ、いいかと、さらに案内を見ると

「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後圓融」「後小松」
「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親町」「後陽成」
とあり、そして「深草北陵」との記載
そのあとに「栄仁親王墓」と加えられています

深草天皇陵案内

はて?さて?どうして、この集団の陵なのか?
さらに坂を山に向かって歩きながら思案してみました

「後深草」は持明院統の最初の天皇(上皇?)だから
持明院統~北朝のくくりの陵なのかなー?お墓もきっちりと分けたんだー
そうすると、もっとほかにいっぱいいたんだろうし・・・
でもこの時期には、そんなにいたのかなー?
と、歩いていると雪がちらついてきました

今日はこの辺で家に帰って、謎を解いてみるかと
天皇系図を開くと
北朝以後、南北朝合一の後小松天皇のそのあとの江戸初期までの天皇陵でした
正統性を表明するためにこうして葬ったんでしょうか
さらに、ギモンがわいてきましたが、
今日は、これまで
大掃除をしなければ年が越せません

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日蓮宗妙顕寺派深草山宝塔寺 

会社生活から、大学院での研究へと人生の方向を切り替え
退職し、はや3ヶ月たち、大学の補講もおわり、
いよいよ、冬休みに入ります

それはそうと、この3ヶ月、毎日、机に向かう日々だったので
運動不足を痛感する今日この頃

これまでは、毎週末欠かさずゴルフで運動するようにし
そのラウンドに向け、毎日、柔軟体操に余念なく過ごしてきたのです
でも、いまのこれでは、卒業するころには成人病の標本のような体になりそうです

宝塔寺山門

なので、冬休み期間は、毎日散歩をすると、
運動不足解消にむけ、きわめて軟弱な目標を立てました
初日の今日は、大学近くの京都の深草周辺の宝塔寺を目指しました
総門(重要文化財)から続く参道は結構歩きごたえがありそうです

宝塔寺本堂

境内は、きれいに掃き清めらていました
たぶん、檀家さんなのでしょう、懸命に仁王門脇を掃除していました
頭が下がります

宝塔寺

立派な本堂です
観光寺院でないので、人影はなく
落ち着いた雰囲気です
また、深草の山のふもとの高台にあるので
見晴らしもよいです

宝塔寺参道

宝塔寺(寶塔寺)は元々は、真言宗のお寺で藤原基経の発願によるもの
鎌倉後期に、日蓮宗日像上人の教化で日蓮宗へ改めたとのことです

天文法華の乱や応仁の乱をへて現代に歴史をつないでいるのでしょうから
大変な時代を乗り越えてきたのでしょうね
境内の多宝塔(重要文化財)は1438年以前に建立され、
京都市内最古の多宝塔とのこと
当時の町衆の苦難の歴史を目の当たりにしてきたことになります

身近なところに、静かな、そして穴場的な名刹があるのは
京都ならなのでしょうね

明日は、ものすごく寒くなるそうです
三日坊主にならないように頑張らないと

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クリスマスツリー 

今日は、立命の先輩のNさんとランチの約束をし、河原町御池へ
待ち合わせの京都ホテルオークラには巨大なクリスマスツリーが!
なかなか美しい

クリスマスツリー

みなさん、写メしていました
そういう私も、ついついシャターを押してました

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関東六老僧 明空のお寺 

真宗大谷派
西木山高月院光明寺
別称「柊の道場」と呼ばれています

小島草庵にほど近いところにある名刹です
開基は関東六老僧のひとり、明空上人で親鸞聖人面授の弟子とされています
(六老僧については覚如の時代に帰依したという説もあります
たとえば『親鸞聖人御旧跡巡拝誌』―関東編― 高下恵氏)

光明寺山門

このお寺の寺号の由来について
「ある月夜の晩、聖人と明空が歩いていると
土中に光るものがあり」これが栗の化石でした。
栗の字組をいれてこの地を西木山高月院光明寺と定め
一宇を設けたということです

光明寺本堂

また、このお寺には「大蛇済度」の伝説も残っています
夫とその妾に嫉妬した妻が夫と妾を殺害してしまいます
そして、その妻は大蛇になってしまいます
困り果てた村人は、神様に託宣をいただきます
その託宣は、くじにより、生贄をささげるということでした

光明寺阿弥陀如来

くじ引きの結果、なんと神主さんの娘をささげることになってしまいます
神主さんは、御祓いなど手を尽くしますが、どうにもなりません
そしてその話を聞いた、聖人がてを差し伸べるのです
浄土三部経を、小石にひとつひとつ書写し
それを、大蛇のすむ淵に投げ入れると
大蛇は成仏しその時に、天空より生蓮華が舞い散ったといいます
その生蓮華はこの光明寺に残っているといいます

なんとも不思議な話です

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小島草庵 

茨城県下妻市にある小島草庵
親鸞聖人が最初に常陸に住んだ地です
上野国佐貫をあとに、この地を目指しました

稲田恋しの銀杏

これを裏付ける資料が恵信尼文書の発見です
大正10年に西本願寺で発見された資料です
これにより様々なことが、明らかになりました

小島草庵

小島草庵に三年住んだのち親鸞聖人は稲田に向かいます
写真の銀杏は親鸞聖人お手植えという説もあるようです

この銀杏は稲田の方向である北に伸びている
それは、聖人を慕っているからだと・・・

聖人は長い旅を終え、この地にたどりついたとき
どのような気持であったのでしょうか?
これからの布教をあれこれ考えたのか?
教行信証の構想を練っていたのか?
先行きに対して漠然と不安を感じていたのか?

関東平野は本当に広いです

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関東二十四輩第十八 

真宗大谷派
仏名山玉川院常福寺

つくば市大曽根にあるお寺ですが
以前は常陸大宮市八田にあったといいます
のちに戦乱に巻き込まれたことにより、現在の地に移りました

常福寺本堂

訪問した当日は、法要が始まろうとしていました
住職さんと思しき人が、外出先から、走って本堂に向かっていました
いつもなら、少しお話を伺うところなのですが
残念ですが、今回は控えました
また次の機会ですね・・・難しいかなぁ

常福寺石碑

入口の石碑は御門徒さんが建立されたもの
少し傾いているのが気になるので
一番傾きが小さくなるアングルをと努力しましたが
どうでしょう?

常福寺全景

常福寺は二十四輩第十八の入信房の寺です
入信は八田知朝といい武士だったのですが、
久慈西郡八田を親鸞聖人が訪れたとき、早速、帰依したといいます
聖人が帰洛する際は、後を追い、尾張国運善寺で再開を果たします
そして、その地で没したと言うことです
心底、聖人に帰依していたのでしょうね

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関東二十四輩第四 

真宗大谷派
帰命山無量寿院如来寺
開基は先日ブログで紹介した関東二十四輩第三の順信房
その弟の乗念房です
(叔父と甥とする本もありました)

如来寺山門

片岡親綱(乗念房)は兄の命を受け、鹿島神宮の大宮司となった後
家名を継いだが、遁世菩提の念が深く、
あるとき本尊の霊夢を感じたのが縁で
建保三年稲田の草庵を訪れ、これを機に聖人の弟子になる
(『親鸞のふるさと』三彩洞美術店刊より)
としています。
鹿島神宮としては、またしても人材の喪失だったんですねぇ

如来寺本堂

さて、この寺の縁起には二つの「びっくり」する説話があります

建保二年聖人が常陸の国に足を踏み入れた年
霞ケ浦の湖の中に怪しく光るものが発見された
驚いたのは漁師だけでなく魚も居なくなり
漁師の収穫はなくなり生活が苦しくなっていた
建保三年三月十四日夕日が沈むころ一人の白髪の老人が
浮き木に乗って浮島というところへやってきた

「われはこれ、鹿島明神なり
あす、親鸞聖人と申す末代の名僧が、この所をお通りになる
汝らはかねがね恐れている湖底の光るものをご覧にいれ、済度を願うべし
われ乗り来るこの浮き木は天竺より渡来しける名木なり、聖人に献じ奉るべし」

浮き足の太子像
    浮き足の太子像

親鸞聖人は翌日現れ、自ら船に乗って光るものを網をかけて引き上げたところ
一体の阿弥陀如来像が上がってきた・・・
・・・この阿弥陀様が真宗木辺派本山錦織寺のご本尊です
(残念ながら当本山の1694年に火災あわれます)

また白髪の老人が残した香木(浮き木)で
親鸞聖人は自ら、「浮き足の太子像」を刻みます
それが、この太子像です
「浮き足」というのは、この太子像は右足が半紙が一枚通る程に
浮いているということです

如来寺寺紋

この太子像、聖人が稲田より帰洛するさい
見送るため、門まで飛んで見送ったということです

寺紋が三つ葉葵なのは、黄門様由緒の寺であるとのこと
水戸家の政策は、一村一寺であったということです
この地域は如来寺さんということですね

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教圓寺 

鳥栖の無量寿寺さん(前回のブログをごらんあれ)の
境内から山門をでて長い階段を下りる途中に
何やら小さなお寺さんがあるので寄り道をしてきました

無量寿寺境内
     この無量寿寺境内から山門を出て左手です

浄土真宗本願寺派教圓寺とありました
結構古い本堂で、無量寿寺さんの下寺だったのかな~
こんなに近いと、現代では共存はむずかしかぁ?と
本堂の前で手を合わせ、お寺をあとに、さらに階段をおり、
下りきったところで上を見ると、ひらけたところがあったので
寄り道がてらと、少しのぞいてみました
すると・・・

教圓寺
   ↓    ↓    ↓
新寺教圓寺

あっ!と驚きました
新しい本堂、美しい!
本堂右手は眼下に田園風景が広がります
眺めがいい!

境内に、人柄のよさそうなおじいさんが
おそらく前住さんでしょう
「昔は無量寿寺さんの下寺だったんだよ
このあたりにもね、結構あったんだよ、今じゃ関係ないけどね」
とおっしゃってました

いろんな歴史があったんだろうな
と思いつつ帰路につきました

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関東二十四輩第三 

浄土真宗本願寺派
光明山無碍光院無量寿寺は
前回のブログで紹介した二十四輩第三の順信のお寺です 
順信は「鹿島門徒」を率いました
正式には順信房信海といい、鹿島神宮の宮司の息子でした

無量寿寺参道

結構急な階段をのぼると山門があります

無量寿寺参道階段

このお寺は「幽霊済度」で知られています
無量寿寺はもともと三論宗のお寺で無量寺という寺号でした
当地に住む、地頭の村田刑部の妻が
難産のために19歳で亡くなり刑部は妻を境内に埋葬しました
ところが、若くして亡くなった妻はその迷いの姿をあらわします
無量寺の住職は幾度か済度を試みたが、ついには寺を捨ててしまいます
ある日、村人は稲田より親鸞聖人が鹿島神宮へ参詣のため付近を通ることを知り
そして、聖人に刑部の妻の済度をお願いするすることになります

無量寿寺山門

親鸞聖人は鹿島神宮の帰りに弟子の順信を伴い、この鳥栖に立ち寄ります
そして人々に多くの小石を集めるよう告げるのです
聖人自らその小石に、一石に一字ずつ浄土三部経を二万六千六百十二字を書写し
幽霊が出現する墓に埋めて、ねんごろに念仏を唱えました
するとたちまち恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げた
そういう話です
聖人の「弥陀のたのむ こころをおこせ皆人の かわるすがたを見るにつけても」
という歌はこの時のものとされています

無量寿寺本堂

そして、聖人はこの地に三か年滞在した後、
弟子の順信に寺の後を任せ、そしてこれまでの宗旨を浄土真宗とし
寺号「無量寺」を改め「無量寿寺」としたということです

無量寿寺内陣

無量寿寺は創建以来この地を動くことはなかったということです

付近には真宗大谷派の「富田の無量寿寺」もあり
順信の隠居寺と伝わります
同様の「幽霊済度」の説話が残ります

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常陸国一の宮 鹿島神宮 

親鸞聖人が、流罪赦免の後、常陸の国の稲田に向かわれたのは
今日、かなりその理由がはっきりしてきています
まず、昨日のブログに書いたように、
頼りになる九条氏の荘園が近くにあったこと
それと、常陸の国が生産力が高く、豊かな土地であったことなどです

そして、おそらく『教行信証』等、執筆のためには豊富な経典があった
ということもあると思もわれます
当時の神宮は神仏習合、
常陸一の宮の鹿島神宮には膨大な経典があったんでしょうねぇ

鹿島神宮楼門
     楼門

稲田神社の敷地内にあった草庵で日常的にはそこの経典を
そして、それでは補えない経典や、都の新しい情報は鹿島神宮へ
その他、筑波山には当時中禅寺というお寺があり貴重な経典が閲覧できた
その苦労をへて『教行信証』は出来たのです

大谷派東本願寺の坂東本『教行信証』は100%真筆と、
今井雅晴先生が講演でおっしゃっていました
決定的理由は、筆跡が日野氏の御家流と一致するからだということ

そう、聖人は9歳までに、日野家の一員として、徹底的に教育を受けていたということです
びっくりですよね

鹿島神宮拝殿
     拝殿

筑波山の「餓鬼済度」の逸話や
二十四輩第四の乗念の如来寺の「浮き足の太子像」
霞ケ浦周辺には聖人の伝説がたくさんあります
弁円の板敷山の話も鹿島神宮からの帰りに起きたのかもしれません

ここ、鹿島神宮にも聖人の「お経石」の伝説もあります

鹿島神宮境内
     奥宮への参道

鹿島神宮は藤原氏ゆかりの神社です
武光誠氏の『知っておきたい日本の神様』では
鹿島の祭神の武甕槌神を日本神話に取り込んだのは
「代々王家の祭官をつとめた中臣氏ではないかと考えられる
中臣氏は東国のあちこちに領地をもっていた」としています

鹿島神宮奥宮
     奥宮

そして関東二十四輩第三の順信は、
「中臣氏とともに鹿島神宮大宮司を排出する大中臣氏(姓は片岡)で
親鸞に帰依する前は片岡信親と称し」(『特別展親鸞』茨城県立美術館)
聖人面受の弟子として「鹿島門徒」と呼ばれる門徒集団を率いることになります
そして順信の鹿島門徒の拠点となったのが、無量寿寺です

鹿島神宮要石
     要石

参道の和食店の女将さんが神宮のパワースポット「要石」を教えてくれました

今日は、龍谷大学の松島教授に、
「会計士・税理士になりたいという学生がいるから相談に乗ってあげて」
という指令をいただき、さっそくその学生さんとお話ししました
私は、最近まで会計系のコンサルティング会社をやっていたので
業界のことはよく知っているのですが、
試験も厳しいですが、そのあとの就職も厳しいのが実情

「要石」の御利益が、彼にも届けばいいのですが・・・

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浄土真宗別格本山稲田山西念寺 

親鸞聖人が東国にて布教されていた期間
もっとも長く滞在したのが稲田の草庵です
昨日のブログで、幸嶋(さしま=現在の猿島)の成然が
稲田へ聖人を訪ね門弟となったと記しましたが
その地が稲田です

稲田山西念寺山門

高下恵先生の『親鸞聖人御旧跡巡拝誌(関東編)』には
「親鸞聖人の稲田草庵の跡はどこであるか、ということは、
史家のあいだにいまだ定説がなく・・・」とされています

稲田山西念寺本堂

昨年末刊行された『親鸞の風景』(茨城新聞社刊)は
「現在の西念寺に稲田の草庵は営まれていた」と記しました
そして、現在の仏教史家の今井雅晴教授は
稲田の地に積極的な意味を見出されています
その著書『親鸞と恵信尼』において
関東二十四輩と呼ばれた門人たちの住所が40キロ範囲内にあることや
常陸国には妻恵信尼の実家の三善家が
家司として仕えている九条家の領地があり
稲田から5~10キロの至近距離であったことなどを記しています

西念寺親鸞聖人座像
   西念寺親鸞聖人像

そして、最もなるほどという説は、
親鸞聖人は茨城において『教行信証』を執筆するために
この稲田に住んだという指摘です
稲田社は広大な社領を有する名神大社であったことです
(多少の誤差はあっても)稲田社の敷地内に草庵はあった
とするのはそれが根拠です

西念寺恵信尼座像
   西念寺恵信尼像

神仏分離令以降相当期間たった我々からは想像がつかないのですが
当時の神社は僧によって運営され、仏教経典が豊富にあったようです
そして鹿島神宮へ聖人が通ったという説も
おそらくは、日常的には稲田を利用したであろうとしています

親鸞聖人頂骨堂
   西念寺御頂骨堂

境内の由緒書きは聖人の伝説に満ちていますが
はたして史実はどうだったんでしょうね?

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関東二十四輩第六 

妙安寺は二十四輩第六の成然(常然)を開基とします
写真は真宗大谷派一谷山大法院妙安寺です
昨日のブログで本願寺が東西に分立した際
東本願寺に親鸞聖人像を献納したとされるお寺の一つです

妙安寺本堂

成然は俗名を中村頼国、関白九条兼実の一門とされています
下総国上幸嶋郡境に流されていた時に
親鸞聖人が稲田(稲田の草庵=現在の別格本山西念寺)にいることを聞き、
聖人を訪ねて門弟となったとされています
(『親鸞の風景』茨城新聞社)

妙安寺開基成然
   成然座像

本山に聖人像を献納した際に「御引替の御影」を賜り、
これが、献納した聖人像の代わりと伝えられています
境内をでた南側に成然のお墓があります

御引替の御影
  「御引替の御影」(非公開)

昨日のブログで妙安寺は3か寺あると記載しました
それは次の経緯でそうなったとされています
「成然は一ノ谷に妙安寺を構え、やがて三村に隠居寺をたてる~
成然は聖徳太子から夢告を受け、
三村にある太子ゆかりの最頂院葛城寺を再興し妙安寺と改める
天正18年~上野国厩橋に移転した」
(『特別展親鸞―茨城滞在20年の軌跡―』 茨城県立歴史館)

妙安寺山号

つまり、一ノ谷の妙安寺が最初で
次が、三村、そして前橋と移ったのですが
その際に一ノ谷も三村も寺として残ったということなんですねー

ちなみに成然坊は「玉日姫伝説」があったころは
玉日姫の兄という説もありました
(『親鸞のふるさと』三彩洞美術店)
史実が明らかになるにつれそのような伝説は取り上げられなくなっていったようです

何れにせよ、成然は幸嶋(猿島)門徒を率い
東国の真宗布教において重要な役割をはたしました

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真宗大谷派東本願寺 

「お東さん」、「東本願寺」
通称名で呼ばれる方が一般的ですよね
正式名称は「真宗本廟」です

東京浅草にある浄土真宗東本願寺派「東本願寺」(浅草本願寺)は
いわゆる「お東騒動」で独立(包括関係の解消)した別の団体になります
(すこしややっこしいですよね)

御影堂
     御影堂(御影堂門より)

御影堂(ごえいどう)は世界最大の木造建築物、正面右の建物です
親鸞聖人の御真影(ごしんねい)が安置されています
その御真影の聖人木造は関東二十四輩第六番の妙安寺より
献納をうけたという史実があります

その、妙安寺なのですが、二十四輩第六番には大谷派三か寺が存在します
みむらの妙安寺、一ノ谷の妙安寺、前橋の妙安寺
何れにも、聖人像の献納の由緒が伝わっているようです

御影堂門
     左奥が御影堂門

御影堂門は高さが28メートルもあるとのこと
手前の建物と比較してみると、その大きさが伝わってくると思います
(境内の人影もほんとに小さく見えます、阿弥陀堂方向から撮りました)

菊の門
     菊の門

本願寺の東西の分立について
その経緯については、諸説ありよくわかってないのですが
その成立後、本山として真宗の歴史には大きな影響を与えます
とくに、近代に著名な学僧が登場し、その影響は派を超え、
京より遠く離れた、鹿児島の大隅半島のさらに隅っこにある我が寺も、
大きく揺れ動いたと伝え聞きます

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真宗佛光寺派本山佛光寺 

流罪となった親鸞聖人が
京都に戻られ、
山科に草庵を結ばれたのがその起源とされます

寺号についての由来は
佛光寺の繁盛を妬む輩が現れ、
ある夜ご本尊や法宝物を盗み出して竹やぶに投げ捨てた・・・
その夜、後醍醐天皇が夢枕に一筋の光が差し込むのをご覧になり、
人を使わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきた。
この仏像がわがご本山の阿弥陀如来像の台座と一致したため
勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光寺の寺号を賜った。
という由緒が伝えられています

仏光寺
        大師堂(御影堂)

歴史家 井上鋭夫氏は著書『本願寺』において
その起源と寺号について、
「正中元年(1324)山科に興正寺を建て、
 阿弥陀如来・聖徳太子の尊容を安置した~
 この興正寺は覚如の命名で興隆正法寺のことであるが、
 元徳二年(1330)京都渋谷に移り、
 存覚の命名によって仏光寺と改めた」と記しています

佛光寺阿弥陀堂
        阿弥陀堂

京都の繁華街からほど近いところにありますが
それとは対照的に静かな、しかし、堂々とした風格のあるお寺です


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落ち葉 

今朝は寒かった
公園の木々の葉もだいぶ落ちてしまいました

でも、足元に目をやれば、
まだ、錦絵が残っていました

私自身にとっては、
20年ぶりに迎える京都の冬です

今日は、農業経済学の大家
稲本志良先生と食事をする機会を得ました
刺激的なお話をいただきました
まだまだ、問題意識が掘り下げられていない自分に
気づくことができました

落ち葉

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大田昌秀元沖縄県知事 

龍谷大学で、元沖縄県知事の大田昌秀氏が講演されました

沖縄の基地問題がメインテーマでしたが
大田元知事の、外交や平和に対する深い洞察に触れることができました

ご高齢にも関わらず、
明快でしっかりとした語り口調は
基地問題をかかえ、厳しい情勢の中で
沖縄県政を支えてきたからなのでしょう

そして元知事の発言は、
常に確固とした学識に基づいているということも
本当によくわかるシンポジウムでした

私自身、もっと沖縄のことを知らなければならない
そう痛感した一日でした

大田元知事
檀上右が大田氏、左は共同通信社の杉田弘毅氏

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慶雲館 

長浜、慶雲館
二階から庭園を見わたした風景

庭師の方に枯山水についてお訊ねすると
手を止めて、親切に庭について
いろいろとお話をしていただきました
ここは、琵琶湖を模しているとのこと
(そういわれれば確かに)

一階から見る風景と
上から見る風景はまた違った趣とのことで
早速に二階へ

慶雲館は、明治天皇行幸の際に建てられた迎賓館
七代目小川治兵衛の作

慶雲館

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長浜御坊 

真宗大谷派別格別院大通寺
湖北三郡(坂田、浅井、伊香)の真宗の拠点として
その歴史に名を刻んでいます

1602年教如上人が、徳川家康より
本願寺分立の許可を得て、東本願寺を興し
これに伴って、無碍智山大通寺という号する寺院として発足したとのこと


長浜御坊山門

山門は総ケヤキづくり
1808年に起工し落慶が1841年
巨大な建造物であるとともに細部にわたって
工芸的な施しがされています

本堂では、お説教がおこなわれておりました
寺院としての保存の状態が、少し気になるところが
ありましたが、教義とともに、文化財としての歴史を後世に伝えていくべき
貴重な寺院です

長浜御坊山門内


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真宗大谷派向源寺 

十一面観音像の渡岸寺観音堂
聞くところによると、現在は真宗寺とのこと
その昔、改宗したらしい
隣接する、資料館に時間をわすれ
本来の目的を果たそうと
寺院を訪れた時は、すでに閉門
うーん、残念!


向源寺

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天徳寺庭園 

福井県若狭町にある
高野山真言宗 宝篋山天徳寺に訪れました
境内の庭園は古刹らしい美しさがあります

本堂に腰を下ろして堪能することができました

その他の見どころも多いお寺です
観光客が少ないというのもいいですね

天徳寺山門

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旧秀隣寺庭園 

高厳山興聖寺境内にある旧秀隣寺庭園(写真)は
国道367号線沿いの鯖街道、滋賀県朽木にある庭園です。

興聖寺は、曹洞宗の古刹であり
司馬遼太郎の『街道をゆく』にも登場し
かつての、巨刹として歴史を現在に伝えています。

境内は静かで、ゆっくりと庭園を散策でき
本堂のご本尊、不道明王座像等々の仏像を
心行くまで楽しむことができる美しい寺院です。

旧秀隣寺庭園

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若狭湾 

半島の山から若狭湾を
眼下に一望できる風景に出合いました。
雲の切れ間から、光がさし
湖のように静かな海が幻想的でした。

若狭湾

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報恩講法座 

はやいもので、もう師走です
そして、今年最後の法座のお知らせです

専念寺本堂にて報恩講法座
日時は12月7日(火)
午前は10:00~
午後は13:30~
講師は、松崎憲英先生です
ぜひ御参詣ください

また夜は、伊勢堀院本堂にて
松崎先生による仏教講演会を行います
同日12月7日19:00~です

専念寺

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伊勢堀院納骨堂 

伊勢堀院の風景です。
右の建物が伊勢堀院本堂
中央奥が第一納骨堂、その左が第二納骨堂です。

手前は駐車場で、ゆったりした空間が
我ながら気に入っています!

無量寿堂

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納骨堂 

無量寿堂
第二納骨堂の増設が完了しました。
お待ちいただきましたみなさま
新規加入の受付を再開いたしました。

納骨堂についてのご相談等は、
寺務所にお問い合わせください。
また、リンク先の当院ホームページより
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納骨堂増設

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