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浄土真宗 一向山専念寺伊勢堀院 BLOG

鹿児島県志布志市の寺院

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関東二十四輩第十八 

真宗大谷派
仏名山玉川院常福寺

つくば市大曽根にあるお寺ですが
以前は常陸大宮市八田にあったといいます
のちに戦乱に巻き込まれたことにより、現在の地に移りました

常福寺本堂

訪問した当日は、法要が始まろうとしていました
住職さんと思しき人が、外出先から、走って本堂に向かっていました
いつもなら、少しお話を伺うところなのですが
残念ですが、今回は控えました
また次の機会ですね・・・難しいかなぁ

常福寺石碑

入口の石碑は御門徒さんが建立されたもの
少し傾いているのが気になるので
一番傾きが小さくなるアングルをと努力しましたが
どうでしょう?

常福寺全景

常福寺は二十四輩第十八の入信房の寺です
入信は八田知朝といい武士だったのですが、
久慈西郡八田を親鸞聖人が訪れたとき、早速、帰依したといいます
聖人が帰洛する際は、後を追い、尾張国運善寺で再開を果たします
そして、その地で没したと言うことです
心底、聖人に帰依していたのでしょうね
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関東二十四輩第四 

真宗大谷派
帰命山無量寿院如来寺
開基は先日ブログで紹介した関東二十四輩第三の順信房
その弟の乗念房です
(叔父と甥とする本もありました)

如来寺山門

片岡親綱(乗念房)は兄の命を受け、鹿島神宮の大宮司となった後
家名を継いだが、遁世菩提の念が深く、
あるとき本尊の霊夢を感じたのが縁で
建保三年稲田の草庵を訪れ、これを機に聖人の弟子になる
(『親鸞のふるさと』三彩洞美術店刊より)
としています。
鹿島神宮としては、またしても人材の喪失だったんですねぇ

如来寺本堂

さて、この寺の縁起には二つの「びっくり」する説話があります

建保二年聖人が常陸の国に足を踏み入れた年
霞ケ浦の湖の中に怪しく光るものが発見された
驚いたのは漁師だけでなく魚も居なくなり
漁師の収穫はなくなり生活が苦しくなっていた
建保三年三月十四日夕日が沈むころ一人の白髪の老人が
浮き木に乗って浮島というところへやってきた

「われはこれ、鹿島明神なり
あす、親鸞聖人と申す末代の名僧が、この所をお通りになる
汝らはかねがね恐れている湖底の光るものをご覧にいれ、済度を願うべし
われ乗り来るこの浮き木は天竺より渡来しける名木なり、聖人に献じ奉るべし」

浮き足の太子像
    浮き足の太子像

親鸞聖人は翌日現れ、自ら船に乗って光るものを網をかけて引き上げたところ
一体の阿弥陀如来像が上がってきた・・・
・・・この阿弥陀様が真宗木辺派本山錦織寺のご本尊です
(残念ながら当本山の1694年に火災あわれます)

また白髪の老人が残した香木(浮き木)で
親鸞聖人は自ら、「浮き足の太子像」を刻みます
それが、この太子像です
「浮き足」というのは、この太子像は右足が半紙が一枚通る程に
浮いているということです

如来寺寺紋

この太子像、聖人が稲田より帰洛するさい
見送るため、門まで飛んで見送ったということです

寺紋が三つ葉葵なのは、黄門様由緒の寺であるとのこと
水戸家の政策は、一村一寺であったということです
この地域は如来寺さんということですね

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関東二十四輩第三 

浄土真宗本願寺派
光明山無碍光院無量寿寺は
前回のブログで紹介した二十四輩第三の順信のお寺です 
順信は「鹿島門徒」を率いました
正式には順信房信海といい、鹿島神宮の宮司の息子でした

無量寿寺参道

結構急な階段をのぼると山門があります

無量寿寺参道階段

このお寺は「幽霊済度」で知られています
無量寿寺はもともと三論宗のお寺で無量寺という寺号でした
当地に住む、地頭の村田刑部の妻が
難産のために19歳で亡くなり刑部は妻を境内に埋葬しました
ところが、若くして亡くなった妻はその迷いの姿をあらわします
無量寺の住職は幾度か済度を試みたが、ついには寺を捨ててしまいます
ある日、村人は稲田より親鸞聖人が鹿島神宮へ参詣のため付近を通ることを知り
そして、聖人に刑部の妻の済度をお願いするすることになります

無量寿寺山門

親鸞聖人は鹿島神宮の帰りに弟子の順信を伴い、この鳥栖に立ち寄ります
そして人々に多くの小石を集めるよう告げるのです
聖人自らその小石に、一石に一字ずつ浄土三部経を二万六千六百十二字を書写し
幽霊が出現する墓に埋めて、ねんごろに念仏を唱えました
するとたちまち恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げた
そういう話です
聖人の「弥陀のたのむ こころをおこせ皆人の かわるすがたを見るにつけても」
という歌はこの時のものとされています

無量寿寺本堂

そして、聖人はこの地に三か年滞在した後、
弟子の順信に寺の後を任せ、そしてこれまでの宗旨を浄土真宗とし
寺号「無量寺」を改め「無量寿寺」としたということです

無量寿寺内陣

無量寿寺は創建以来この地を動くことはなかったということです

付近には真宗大谷派の「富田の無量寿寺」もあり
順信の隠居寺と伝わります
同様の「幽霊済度」の説話が残ります

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関東二十四輩第六 

妙安寺は二十四輩第六の成然(常然)を開基とします
写真は真宗大谷派一谷山大法院妙安寺です
昨日のブログで本願寺が東西に分立した際
東本願寺に親鸞聖人像を献納したとされるお寺の一つです

妙安寺本堂

成然は俗名を中村頼国、関白九条兼実の一門とされています
下総国上幸嶋郡境に流されていた時に
親鸞聖人が稲田(稲田の草庵=現在の別格本山西念寺)にいることを聞き、
聖人を訪ねて門弟となったとされています
(『親鸞の風景』茨城新聞社)

妙安寺開基成然
   成然座像

本山に聖人像を献納した際に「御引替の御影」を賜り、
これが、献納した聖人像の代わりと伝えられています
境内をでた南側に成然のお墓があります

御引替の御影
  「御引替の御影」(非公開)

昨日のブログで妙安寺は3か寺あると記載しました
それは次の経緯でそうなったとされています
「成然は一ノ谷に妙安寺を構え、やがて三村に隠居寺をたてる~
成然は聖徳太子から夢告を受け、
三村にある太子ゆかりの最頂院葛城寺を再興し妙安寺と改める
天正18年~上野国厩橋に移転した」
(『特別展親鸞―茨城滞在20年の軌跡―』 茨城県立歴史館)

妙安寺山号

つまり、一ノ谷の妙安寺が最初で
次が、三村、そして前橋と移ったのですが
その際に一ノ谷も三村も寺として残ったということなんですねー

ちなみに成然坊は「玉日姫伝説」があったころは
玉日姫の兄という説もありました
(『親鸞のふるさと』三彩洞美術店)
史実が明らかになるにつれそのような伝説は取り上げられなくなっていったようです

何れにせよ、成然は幸嶋(猿島)門徒を率い
東国の真宗布教において重要な役割をはたしました

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